「ツジムラ」が考えていること。
「機屋(はたや)の息子が学び舎をはじめました。」
私の母方の祖父「吉久」は、足助の山奥で無名の教師をしていました。過疎の村の木造校舎には数えるほどの児童生徒しかいませんでした。私の父方の祖父「春吉」は、戦後の焼け野原で機屋をはじめました。貧乏ながらに建てた工場が改装され、学び舎辻村勉強会に生まれ変わりました。「学び舎」の「舎」は「人」(ひとやね)に「吉」(きち)。私の名前「宣人」の「人」と、二人の祖父「吉久」と「春吉」の「吉」。人の集まるところに吉がある。祖父の意志を受け継ぎ、機屋の息子が学び舎をはじめました。
「大きな塾にはできないことがある。小さな塾にしかできないことがある。」
ネームバリューはありません。校舎は見上げるビルではありません。タブレットやパソコンはありません。黒板と机だけしかありません。あふれるプリントの海に溺れさせません。送迎の交通渋滞はありません。高額な追加料金は必要ありません。使途不明な諸経費はいただきません。営利目的の教材購入はありません。自分で考えることを邪魔しません。自分で見つけることを邪魔しません。自分で成績を上げることは邪魔しません。過保護にしません。
「親・学校・地域」
子どもの教育と成長に三者の協力は必要不可欠です。「親・学校・地域」の三角形が将来を支えます。しかし、各々の問題点ばかりが強調される昨今。モンスターペアレントなる「親」、やりがいに頼り過ぎた多忙な「学校」、安全と安心を失いつつある「地域」、そして、学校を批判する親、親におびえる学校、希薄な関係の地域。子どもは親の過干渉と、学校の内申点と、地域の不審者情報におびえています。だからと言って学校より学習塾が威張るのはおかしな話で、コマーシャルと無料キャンペーンの営業努力が親や子どものためになるとは思えません。私は東中学区の江原町で生まれ育ちました。だからこそ、「学び舎辻村勉強会」が三角形の「地域」の役割をひっそりと担うことができたらと考えています。地域のおとなが地域の子どもの面倒を見ることは本来あるべき姿です。それは、古くは寺子屋であったり、村のそろばん学校であったり、近所のご隠居や駄菓子屋であったり・・・。「地域に根付いた」「地域密着」なんて宣伝文句を並べなくても、生まれ育ったこの土地で、地元の子どもたちに勉強を教えるだけのこと。カッコよく言えば、それが「学び舎辻村勉強会」の指導方針です。
「勉強の仕方を勉強しよう。」
「一冊のテキストがぼろぼろになるまで繰り返す」「学校の宿題は何回も繰り返す」「覚えることは書いて繰り返す」こんな当たり前のことを誰も教えてくれないのはなぜか。「繰り返す」ことは儲からないからだ。「新しいテキストを買いましょう、新しい講座を受講しましょう、新しいタブレットをプレゼントしましょう・・・」商業ベースに乗った塾の過保護なサービスによって成績が上がった子は、高校へ行ってこう言う。「勉強の仕方がわからない…」勉強の仕方を勉強しよう。遠まわりでも、不器用でも、要領が悪くてもいい。学問に王道はない。
「成績を上げるということ。」
城山中・若水中・振甫中・緑中・左京山中・滝ノ水中・大治中・七宝中・七宝北中・美和中・蟹江中・佐屋中・天王中・立田中・藤波中・知立中・知立南中・矢作中・矢作北中・安城北中・東山中・朝日中・依佐美中・幸田中・六ッ美中・西尾中・平坂中・鶴城中・福地中・東部中・・・。私はこれまで、塾講師として愛知県内で20以上の中学校の生徒を指導してきました。若い頃の私は、生徒の成績を上げることが楽しくて仕方ありませんでした。学年順位も、内申点も。自分自身も表彰され、昇格し、昇給し。その方法は、当時であれば「企業秘密」でしたが、今では事細かに話すことができます。それは・・・、出題する中学校の先生の出題傾向を休日返上で徹底的に分析し、予想問題からなるテスト対策プリントを校舎に泊り込んで徹夜で何枚も作り、生徒には出ない問題は与えず、出る問題だけを与え、意味など理解させず強制的に暗記させる。ゴリゴリの管理教育よろしく、自主性の芽を摘み、自分で考えさせず、精神論で抑え込む。失敗が許されない私は、生徒たちの失敗も許しませんでした。血のにじむような努力をした私は、言うなれば、究極の近道を生徒たちに教えたのです。そんな特効薬的なやり方には激しい副作用がありました。急激に順位が上がった子におとずれるリバウンドや入試に必要な実力の欠如、テストが近づくと「プリントちょうだい」「プリントちょうだい」と生徒のおねだりがとまらない。生徒の質問も、「この問題の解き方は」という教科的なものから、「何が出るの」「簡単な覚え方を教えて」「どうしたら内申点があがるの」という短絡的なものに変わり、私も講師ではなく、まるで予想屋。実力以上の順位をとったため、実力以上の内申点を与えられ、実力以上の進学校に合格してしまう。ついていくのがやっと。最悪の場合中退。高校へ行けば、誰もプリントを作ってくれない、誰も予想問題を教えてくれない。久々に塾に遊びに来た卒塾生はこう言う。「先生、勉強の仕方がわからない…。」あぁ、私はこの子を骨抜きにしてしまった。私は自分で考える知恵と生徒の失敗する権利を奪ってしまった。何が出題されるかを教えてもらった生徒は、何が出題されるかを自分で考えなくなってしまった。権威的に強く管理された生徒は、叱らなければやらない子となり、自分で考えて行動ができない指示待ち人間のオトナになってしまう。塾として中学3年間がよければそれでよいのか。卒業後は知らん顔でよいのか。目先の結果を求め、今さえよければそれでよいのか。強烈な痛み止めの注射で感謝されて恥ずかしくないのか。その先の勉強を教えてあげられなくても、社会に出て相談にのってあげられなくても、普遍的な礎を身につけさせるべきではないのか。たかが塾。されど塾。私はこう考えました。「私の努力で生徒の成績を上げるのではなく、生徒の努力で成績を上げるべきである」個人差や才能のあるなしは認めます。3回書いて覚えてしまう人もいれば、20回書かないと覚えられない人もいます。テスト勉強が3時間でできてしまう人もいれば、10時間必要な人もいます。努力が絶対報われるとは限りませんが、努力しないと絶対報われない。人から先生と呼ばれている以上、努力した者が努力した分だけ評価されることを追い求めるべきではないかと。そして、すぐに結果は出ないとしても、その努力をするのは塾の先生ではなく、本人であるべきだと。勉強さえすればよいなどとは決して言いません。偏差値だけで人を評価するのは間違っています。家族や友達、恋愛、部活、スマホもゲームも大事でしょう。方程式の文章題や化学式、時差の計算、ことばのきまり、関係代名詞が将来役に立たなかったとしても、あの時あれだけがんばったという事実は、自信というかけがえのない財産になります。「知識」を詰め込むのではなく、学ぶ「知恵」を身につける。「自分で考えなさい。自分で見つけなさい。成績は、自分で上げなさい。こんな冷たい学習塾は、他にない。」勉強の仕方を勉強しよう、という意味がここにあります。
「テスト週間ゲーム禁止はまちがい? ツジムラテスト勉強会」
集中力とは、いったいどれくらい持続できるものなのでしょうか。それが嫌いなことなら一層難易度が上がります。そのための工夫。テスト週間におこなわれるツジムラのテスト勉強会の時間割りは以下の通りです。『8:00-8:50・9:00-9:50・10:00-10:50・11:00-11:50・1:00-1:50・2:00-2:50・3:00-3:50・4:00-4:50・5:00-5:50・7:00-7:50・8:00-8:50・9:00-9:50』めまいがしそうな時間割りです。どんな子でも、保護者でも、最初は「えっ」と驚きますが、意外にも、これ、こなしてしまいます。こなしてしまう理由の1つは、あるルールにあります。それは「休憩時間は何をしてもよい。おしゃべりしても、堤防を走り回っても、カエルやメダカを探しても、釣りをしても、キャッチボールをしても、バトミントンをしても、寝転んでも、本を読んでも、CDを聴いても、ギターを弾いても・・・」というものです。ツジムラにゲームはないので、「ゲームをやってもよい」とは言いませんが、とにかく、一生懸命勉強して、一生懸命休憩する。メリハリ、緊張と緩和、けじめ。10分の過ごし方が50分の集中力を支えます。人は嫌なことをするとストレスが溜まります。勉強が好きならばそれに越したことはないのですが、嫌いであれば、そのストレスをうまく解消する方法を見つけましょう。そのため、テスト勉強会は「勉強の50分」よりも「休憩の10分」が大切なのです。「たくさん遊ぶ子はたくさん学び、たくさん学ぶ子はたくさん遊ぶ」魔法にかかったかのように机に向かう彼ら彼女らは、とても輝いています。しかし、輝いているだけでは成績はあがりません。「テスト週間にあれだけ勉強したのになぜ順位があがらないの?」と聞かれることがあるのですが「テスト週間だけ勉強しても成績はあがりませんよ」が答えです。テスト週間だけがんばっても、一夜漬けでは実力になりません。授業を真剣に聞き、宿題は手抜きをせず確実にこなす。覚えるべきことは書いて覚え、小テストやチェックテストは絶対に合格し、まちがい直しを徹底する。そんな日々の「よい準備」を完成させるのがテスト週間、テスト勉強会です。そして、私は彼ら彼女らの背中を見つめているだけです。勿論、たくさんの質問に答えますが、それ以外は何もしていません。頑張るのは子どもたちです。学生時代の私は、よく図書館で勉強しました。私も家ではなかなか勉強できなかったので・・・。中学生にも図書館のような環境を提供できたらと考えていました。そして質問に答えてくれる人がそこにいるなら最高です。それが「テスト勉強会」です。図書館の利用が無料であるように、テスト勉強会の利用も無料であり続けたいと考えています。
「テスト週間に髪の毛を切りに行く余裕はあるか?」
テスト週間に「テスト勉強会以上の時間を自宅で確保できる。」「集中を邪魔するものがない」「わからない問題がなく、質問の必要がない。」以上の3つの条件を満たしている人は、ツジムラのテスト勉強会に参加する必要はありません。義理で参加する必要もなければ、強制もしていません。自分のペースを守らせてくれない学習塾は本末転倒。また、量をこなしてもいないのに、質に原因を求めるのは言い訳にすぎません。「勉強の仕方がわからない」と言う人の中で、なにやら必殺技のようなものを求めている人がいます。はっきり言います。勉強に必殺技はありません。しかし、答えはとてもシンプルです。「失敗しながら、自分でみつけるしかない」のです。では、何をやるかと言えば、学校のテキスト、ツジムラのテキスト、これだけで十分です。例えば、学校とツジムラのテキストを最低3回以上解く、これだけで十分おなかいっぱいになるでしょう。そして、プラス副教材の確認テストや単元テストなどの学校の先生からいただいたプリント類を合わせれば、テスト勉強会の1時間も、1分も、1秒も無駄にできない、いや、それどころか、時間が足りないことに気づくでしょう。それに加えて書店の問題集や参考書、デジタルタブレット、通信教育の教材、に手を出すと・・・、すべてが中途半端で食べかけになってしまうのは目に見えています。おなかいっぱいになれば、無駄な勉強、間違った勉強をしている余裕はなくなり、当然、「勉強の仕方がわからない」と悩む時間も、言い訳探しの時間も必要なくなるはずです。また、何をすべきか以上に、何をすべきでないかを極めるのが、よい勉強なのかもしれません。すべきでないこととは、自作の問題を作ったり、自作の解答用紙をノートに定規で作ったり、挙句の果てには、地図や表、絵までカラフルに描き写す始末・・・。テスト週間に教科書をノートにまとめる作業は時間の無駄と言っていいでしょう。一見、「勉強している感」はありますが、頭に残らず、残るのは疲労感と自己満足。実際は「教科書をまとめる」ではなく、カラフルなペンを使って「教科書を写している」だけになりがちです。全てを否定するつもりはありませんが、実は教科書をまとめる作業は、かなりレベルの高い作業です。授業は「先生が教科書をまとめたものを板書し、それを生徒がノートに書き写す」というものが基本です。先生以上に上手にまとめる自信があるなら、どうぞ挑戦してください。きっと今すぐいい先生になることができます。その無謀な挑戦は、1分1秒無駄にできないテスト週間にはおすすめできません。テスト週間に入る前に髪の毛を切っておきましょう。それも日々の「よい準備」のひとつです。
「ツジムラが『自習』という言葉を使わないワケ」
「ボールペンを1本、1週間で空にしてみよう!」というプレゼントをしました。中学1年生から浪人時代まで、108本のボールペンを空にしたのは今でも私の自信になっています。テスト勉強会で、これだけ長時間、生徒におつき合いするのは、「勉強の量」から「勉強の質」を導き出してほしいと考えているからです。「勉強の仕方を勉強しよう」とは、「近道を教えてあげるよ」という意味ではなく、「自分に合った勉強法を考えて見つけよう」というものです。そのためには、間違えたり、失敗したりの試行錯誤にどうしても時間を要します。(それでもテスト勉強会の私は、職業病か、性格か、手出し口出しあーせーこーせー、自分のお節介を悔やむ毎日ですが…。)塾に行って「お金」で成績を買うのではなく、ツジムラに来て「時間」で成績を上げてほしい。「お金」をかける生活ではなく、「時間」をかける生活がきっと人を豊かにしてくれます。要領が悪いことはそんなに悪いことではないのです。可愛げのない要領のいい子より、転びながら前に進もうとする子の味方でありたい、まさに自分がそうでした、可愛げがありました。(笑)それにしても、テスト勉強会は、ほとんど自由参加にもかかわらず、これだけ自主的に参加してくれるということは、「やらなきゃ!」と自分でわかっている証拠です。「やらされ勉強」と「自主的な勉強」では頭に残る量と質が全く違います。もちろん、後者の方が圧倒的に身につきます。「勉強しろ」「宿題やれ」と「やらされ勉強」を生徒に強制するのはオトナとして工夫が足りません。「自主的な勉強」ができる方向に工夫しながら導いてあげることがオトナの役割りであり、テスト勉強会の意義だと考えています。しかし、正直に言うと、その工夫はとても私の神経をすり減らします。(笑)テスト勉強会後の私は毎回抜け殻状態です。こうしてるんだ、ああしてるんだ、と恩着せがましく公言しませんが、少なくともテスト勉強会は、「時間が余ったから自習してろ」的なよくあるノリではないことは確かに言えます。「強制的な自習」という矛盾からは何も生まれないのです。
「はい、辞書を引こう。」
私が小学生だった頃、「辞書を枕にして寝ている」と言われるほど辞書を引くことが大好きな先生がいました。私は子どもながらに、「先生でも知らないことがあって辞書を引くのか」と感動しました。「先生、〇〇〇ってどういう意味ですか」「はい、辞書を引こう」決して答えを教えてはくださらず、いつも辞書を手渡してくださいました。何でも知っている先生がスゴいのではなく、知るすべを知っている先生はスゴいと思いました。いや、本当は「教えてくれればいいのに、面倒くさいなぁ」と思ったかな・・・。私が高校時代から使っている英和辞書、調べた単語に全てアンダーラインを引きました。意味を忘れて再び調べると、単語を赤ペンで囲み、意味を忘れて再び再び調べると、単語を蛍光ペンでチェックし、意味を忘れて再び再び再び調べると、単語も意味も赤ペンで囲み、意味を忘れて再び再び再び再び調べると、ふせんを張り・・・。これは自慢ですが、適当なページを適当に開いても、必ずどこかにアンダーラインが引かれています。便利な電子辞書には勉強の証が残らないのが欠点です。(履歴が残る機能もありますが)アンダーラインという勉強の証は何よりも私の自信となりました。ツジムラにある辞書は私が学生時代から使っているものです。みんなの質問に対して、なるべくこの辞書を手渡すつもりです。面倒くさいと思ってくれて結構。面倒くさいからこそ記憶に残るのです。「知っていること」がスゴいのではなく、「知るすべを知っていること」がスゴい。「勉強ができること」がスゴいのではなく、「勉強のすべを知っていること」がスゴい。「先生、『すべ』ってどういう意味ですか」「はい、辞書を引こう」
「教室の掃除をすると、、、」
中1生の帰宅後に教室の掃除をすると、シャープペンシルの芯がたくさん落ちています。小学校で使うなと言われていたシャープペンシル。中学校でいきなり使っていいよと言われても、チカラ加減がうまくいかず、プチプチ折れて落ちています。中2生の帰宅後に教室の掃除をすると、消しゴムのカスがたくさん落ちています。必要な勉強の量と消しカスの量が比例しています。そして、不思議なことに髪の毛もたくさん落ちています。自分の外見が気になり始め、髪の毛をさわりがちになる思春期ど真ん中。中3生の帰宅後に教室の掃除をすると、消しカスが落ちていません。当然、勉強量が減るわけでもなく・・・。実は、気をつかうことを覚えるんですね。自分で出した消しカスは、自分でごみ箱に捨てるようになるのです。消しカスだけではなく、面白いモノがイロイロ落ちているのがテスト勉強会のその後。みんなで買って食べるのが楽しいんだろうなぁ、ガムや飴の包み紙、眠気と戦うミンティアの空き箱。ジュースこぼしてティッシュで拭きやがったっ、床がベタベタじゃねーかーっ。はい、水筒の忘れもの~、弁当箱の忘れもの~、財布以外は忘れるな~。何で緑のバランが床に落ちているかなぁ・・・、忘れものか?植樹のつもりか?問題です、どうして小中学生からあんなにたくさん砂が落ちるのでしょう。掃き掃除をすれば、砂、砂、砂・・・、だからっ、砂があってもバランは育たん。そして、消しカス、シャー芯、キャップ、ポストイット…。これらは「ゴミ」ではなく「勉強の証」とみるなら微笑ましい。私が、彼ら彼女らにできることはたかが知れています。掃除をしてあげられるくらい。送迎してあげられるくらい。保護者からの差し入れのサツマイモで焼き芋をしてあげるくらい。もちろん、朝から晩までつきあって、たくさんの質問に答えますが、結局、がんばるのは自分、頼るのは自分なのです。「オレがオマエの成績を上げてやる!!」と言っている先生はニセモノです。「オマエがオマエの成績をあげてみろ!!」塾の先生としては勇気のいる言葉ですが。
「中学1年生~生まれて初めての定期テスト」
何を覚えて、どう覚えて、どんな問題で、どれぐらい難しいのか、何点なのか、何番なのか・・・。わからない事だらけ、生まれて初めての定期テスト。おそらく、ツジムラのテスト勉強会に参加すると、今までこれほど長時間勉強したことがない、という経験をするでしょう。この勉強量は今後の中学校生活を送る上での自信になります。そして、中学生は「量」だけではなく、「質」が求められます。私は毎年、中学一年生の最初の中間・期末は、なるべく手出し口出しをしないよう心がけています。おせっかいをしないその理由は、君たちの「失敗する権利」を奪わないため」です。はっきり言って、ほとんどの1年生の勉強法は下手っぴです。これは、生まれて初めてのことなので当たり前です。しかし、冷たい言い方ですが失敗も勉強のひとつ。人は失敗から多くのことを学びます。あれでもない、これでもないと試行錯誤し、失敗しながら自分の勉強の仕方を見つけ出してください。ツジムラは「予想問題ズバリ的中」「対策プリントで得点力アップ」「これさえやれば成績はあがる」など、努力を避けて楽な方法で成績を上げることを考える塾ではありません。また、お金で成績を買える塾でもありません。そのため、残念ながら「成績アップで学費返還」「10番以内で図書カードプレゼント」なんて魅力的な制度もありません。個別指導やマンツーマン指導でもないので、自立心のある子の自立の芽を摘むような過保護なサービスも私にはできません。テスト勉強は「対策」するものではなく、「勉強の仕方を勉強する」もの。そのためであれば、私はどこまでも君たちに付き合います。
「中学2年生~友だちよりよい順位をとることに意味はない。今までの自分よりよい順位をとることに意味がある。友だちとの勝負ではない。自分との勝負なのだ。」
私自身もツジムラに10番以内の生徒が何人いるかなど全く興味がありません。「ツジムラには1位の子がたくさんいるね」「へぇー・・・」です。私が頑張ったのではなく、1位をとった子が頑張ったのです。そして、「今回の順位はあの子に勝ったよ」ではなく「今回の順位は過去最高だったよ」という言葉を聞きたいのです。周りの友だちとの勝負ではなく、過去の自分との勝負。中学2年生は勉強の難易度が一気に上がり「勝ち組」「負け組」の格差が生じる学年です。だから一番順位が上がりやすい学年です。中2病と診断されなければ、あたりまえに勉強していれば、周りを気にしなくても勝手に順位がついてくる学年です。
「中学3年生~合格実績 東高校・・・名!西高校・・・名!南高校・・・名!北高校・・・名!」
合格した!成績が上がった!なぜそれを塾が自慢するのでしょうか。合格実績とは塾の実績ではなく、君の実績のはずだ。君の努力を宣伝材料にするのはおかしい。仮にそれが塾の実績であるのなら、君の力ではなく、塾の力で高校に合格したことになる。そして、塾のおかげで合格できたのなら、不合格だった子は塾のせいということになる。その責任を塾がとってくれるのだろうか。君たちがツジムラを選んでくれることは嬉しい。しかし、辻村勉強会の実績などどうでもいい。君が勉強するか、しないかだ。そして、志望校は本人と保護者が決めるもの。無理やり進学校に誘導するのではなく、無理やり安全校に誘導するのではなく、客観的な事実と選択肢を提供し、本人と保護者が自分自身で第一志望を決定できることが進路指導の理想です。そこに、大人の事情を持ち込むのはもってのほか。主役はいつも、学校ではなく、塾ではなく、教師ではなく、講師ではなく、生徒なのです。もちろん、点数や順位、内申点ではその人の全てを評価することはできません。100点が偉いわけでもなく、1位がすばらしい人間とは限らず、オール5が尊敬に値するとは限りません。しかし、入試は数字で評価されるというのも現実。がんばった「過程」だけではなく、合格か不合格かという「結果」を求められるのも現実。一日一日と入試は近づき、沸き起こる不安。不安を消してくれるのは「これだけ勉強したんだ」という自信だけです。そして、その自信は、合格通知以上のものを君に与えてくれることでしょう。「行きたい学校」と「行くことができる学校」は必ずしも一致しません。また「不合格になること」と「悔いが残ること」も必ずしも一致しません。人生で一度きりの高校入試。(私は毎年高校入試・・・、だから毎年胃がイタイ・・・。) 「自分自身で決めた第一志望に向けて、これだけ徹底的に勉強したのだから結果に悔いはない」そんな15歳の決断とがむしゃらさが、サクラサク春を呼ぶことでしょう。第一志望絶対合格。
「わからないところは先生に聞きなさいよ。その1」
言ったことありますか。言われたことありますか。この言葉を言う側も、言われる側も決して誤解してはいけません。質問には「よい質問」と「よくない質問」があります。「よい質問ですね」と先生に言われた経験がある子もいるのではないでしょうか。「よくない質問」の例を挙げましょう。「推古天皇の摂政は誰ですか」「太陽の表面温度は何度ですか」「『にいがた』って漢字でどう書くの」答えは「教科書に書いてあります」です。インターネット時代の検索グセでしょうか、なんでもかんでも聞けばよいというものではありません。聞く前に、「自分で考えること」が「身につく勉強の仕方」です。何回やっても覚えられないのは、自分で考えていないからです。まちがいを恐れず、まずは自分の頭で考えて解き、教科書で調べ、解説をじっくり読み、それでもわからないときは質問をする。「自分のものにする」とはそういうことです。「わからないところは先生に聞きなさいよ」の前に、「わからないところは自分で考えなさいよ」が必要です。自分で考えた結果、わからなければ自然に私のところへ足が向くはずです。そんな「よい質問」にはとことん付き合います。
「わからないところは先生に聞きなさいよ。その2」
保護者の方々は、わからないところを先生に聞いていますか。辻村勉強会では、学習、進路、入試のしくみ、学校、部活、雑談、その他、内容を問わず、時間無制限の二者面談を常時受け付けております。先生に聞ける親ならば、先生に聞ける子に育つでしょう。知らないことは恥ずかしくない。知っているふりをすることの方が恥ずかしい。そんな価値観を大切にしたいと考えています。
「迷走する英語教育」
英語の幼児教育とやらの営業も盛んで、小さいうちから英語を習っている子は要注意です。成績が上がらない子は得意科目から勉強します。得意科目を勉強することは「楽」です。わからないところも少なく丸がいっぱいで「楽しい」です。英語が得意な子は英語ばかり勉強してしまいがちです。部分的な筋トレが流行なのかもしれませんが、バランス悪くついた筋肉が他を阻害することはよくあることです。中学校の勉強は、得意科目をつくること以上に、苦手科目をなくすことが大切です。勉強の優先順位は苦手科目から。苦手から逃げない。集中力が切れたなあ、疲れたなあ、眠たいなあ、という時に得意科目を勉強すればよいのです。それにしても、大学入試共通テストの外国語試験について、二転三転のゴタゴタは記憶に新しいですが、そもそも、小中高大と12年間英語を勉強して「話すことができるようにならない」ということが長年の英語教育の迷走を象徴しています。これは、泳ぐことができるようにならないスイミングスクールに12年間通っているようなもの。そしてその結果、保護者が幼児期から英会話教室に飛びつき、検定試験を妄信するようになったのは致し方ないのかもしれません。私見ですが、そもそも英語は「言語」であり、言語は「文化」であるならば、その文化を習得するためには、俗にいう「主要教科」ではなく「実技教科」として学ぶべきではないでしょうか。体育や音楽や美術と一緒に。そうでなければ「会話英語」と「受験英語」は目的も手法も全く違う別物、という認識をもつ必要があります。よりわかりやすく言うと、英会話教室へ通わせているからといって、中学・高校の「受験英語」に対応できるとは限らないのです。それに拍車をかけたのが、2020年度から始まった小学校の英語教科化です。危惧すべきは、小学校で「触れた」何百もの英単語を、「習得した」ものとして中学校の授業がスタートする点です。「小学校で英単語を600~700語は習ったよねー、覚えたよねー、書けるよねー。じゃあ中学校で新しく1600~1800語を覚えようねー。」ってノリでしょうか。小学校の「会話英語」から中学校の「受験英語」への引継ぎ問題。それに加えて、小学校では深く触れなかった重要な文法事項を中1の1年間で一気に詰め込みます。詰め込みが批判される中、結果的に今まで以上の詰め込みがおこなわれるという現実。我々の頃、中学入学後の初めてのテストはアルファベットを書くことができればOK、という牧歌的な時代は完全に終わっています。そのことを、大学時代の先輩の小学校教師(専門は英語)に話すと、「いいじゃん! それ塾でフォローしてくれたら学校はとても助かるよ!」と、なんとも脳天気な回答…。今までも学習指導要領の改訂の度に現場や子どもたちは振り回されてきたのですが、今回ほど大きな危機感を抱いたのは初めてです。日本語すらままならない時期から英語文法を教え込むことには懐疑的ですが、どうやら中学入学前に英語の準備を自らしておかないといけなくなってしまったのはまちがいないようです。
『自分のために。2020』
ツジムラ第12期生の受験勉強は新型コロナウィルスから始まりました。学校休校からZoomでのオンライン授業やオンライン勉強会、夏休み短縮等、受験生にとっての大切な時間の流れも例年とは大きく変わりました。それは、12期生のみんなにとっても、保護者の皆さんにとっても、学校の先生方にとっても、そして私にとってもすべてが初めての経験でした。そんな中、私に追い打ちをかけたのが12期生A君の長期入院でした。コロナ禍での離脱、オンラインから解放された後も。塾に来たくても、来ることができない子がいる。実は、A君のお母さんからの現状報告は、他の12期生にはほとんど伝えませんでした。それは、「A君ために頑張ろうぜっ」という空気には絶対したくない、と思ったからです。「A君のため」というのは欺瞞(ぎまん)です。受験勉強は自分のために頑張るのです。A君を利用して頑張るものではない。そして、A君も病室で自分のために闘っている。12期生の最後の授業で、A君からの手紙を読みました。最後の授業でお涙頂戴はくすぐったいという心配をよそに、A君の手紙の内容にみんな大爆笑。A君らしい。さすがA君。自分のためにがんばるということ。親のためでも、仲間のためでも、学校のためでも、塾のためでもない。合格実績とは、君の実績であり、塾の実績ではない。「先生のおかげで合格しました」は大間違いなのです。中学生の努力を、塾の努力にすり替えた合格実績に釣られることは、過激にも、もう少し自分で考えて行動しろよ、思います。そう、自分のために、自分で考えて、自分で決めて、自分で行動し、自分で責任をとる、それがオトナになるということであり、その第一歩目が高校入試なのかもしれない。第13期生はすでに新受験生です。まだまだ伸びシロがたっぷりある子たちが多いので、期待が爆発しそうですwそんな私の期待など、どうか無視して、あくまで、どうぞ自分のために。
『自分のために。2021』
先日、友人の植木屋さんに「お勧めの庭木は?」と聞いたところ、「知り尽くしてるプロは、その植木のよいところ以上に、悪いところを教えたくなっちゃう…」と言われました。私も「お勧めの塾は?」と聞かれることがよくあるのですが、同じ心境です。例えば完全個別指導(マンツーマンや家庭教師を含む)の学習塾。「個別」という言葉は耳に心地よく、面倒見を売るが故に学費も高額になり、「集団」授業をメインに据えた学習塾の比にならない大きな利益を上げています。もちろん辻󠄀村勉強会は、完全個別ではありません。それは、成長過程の中学生にとって、「成績が上がらないこと」以上に、「過保護にすること」の方が、今後の学習や、延いては今後の人生においてマイナスが大きいと考えているからです。過保護の代償を本人が回収する、その姿を見るのはやるせない。「個別」の具体的な手法についての言及は避けますが、インプットの方法が「個別」だからと言って、プロセッシングとアウトプットが充実するわけではありません。少なくとも、ツジムラを選んだ子は、化学肥料で無理やり成長させたり、化学調味料でわざとらしい甘味をだしたり、サプリメントを主食にしてほしくない。(わざとわかりにくく書いてます。スイマセン)最終的に、「個別」に通う子も、「集団」に通う子も、自分自身で「成績が上がること」以上のものを身につけ、発揮しなければならないのです。そのための環境は「集団」の方が適していると考えているのが辻村勉強会です。周りは、見守る我慢強さを要求されますが、本人にとっては、もまれながら、周りの目を気にしながら、相乗効果で成長することが、一番自然です。社会の一員として荒波の世に船出する準備と考えると、「集団」の中で「自分のために頑張る」ことを経て、結果的に、生きていくには「自分のためだけではいけない」ことに気づくはずです。「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」誤解を恐れずに言えば、非力な私にできることは、彼ら彼女らに「時間」と「空間」を与えることくらい。インターネットの普及による情報過多の時代は、情報が増えれば増えるほど、悲しいかな自分で考えることすら不要にします。自分で考えず、他人の「いいね」で行動してしまうわけですから。加えて、情報過多の時代は、「知らなければ知らない奴が悪い」とみなされがちです。自己責任。重い言葉です。自分で勉強しなければなりません。それは、ネット上にあるうわべの情報や他人の偏った主観ではなく、そこにはない「ホンモノ」を自分で探し出さなければならないということ。そのためには、自分のために、自分で考えて、自分で決めて、自分で行動し、自分で責任をとる。その重要性がコロナ禍で加速した気がします。その後・・・、その植木屋さんからのアドバイスを無視して、自分で考えて買った庭木を、小さな庭に植えた春の日でした。
『自分のために。2022』
あくまでくろこ。名古屋で塾講師をしていた頃に受け持ったクラスの話。43名の生徒全員が、ハチマキに手書きの言葉。「志望校全員合格! 辻村先生を喜ばせる! 辻村先生を泣かせてみせる! 」その時、生徒の前で、うかれた自分を今でも後悔している。なぜ「オレのために頑張るな!! 自分のために頑張れ!! 」と言ってあげられなかったのか。カリスマ先生はいらない。先生が目立っちゃぁいけない。「つながり」の強迫観念と、手あかのついた「絆」の根っこが先生であってはならない。ましてや先生の「趣味」や「嗜好」におつき合いする必要もない。生徒が主役で、先生は「くろこ」。学校も、学習塾も、ひと昔前の名物先生や人気講師はいらなくなった。金八先生や林修先生が主役では、解決できないことが多すぎる。塾講師としては、「わかりやすい授業」をするのは大前提だが、「くろこ」に徹することで、喜怒哀楽が必然的に生徒のものになればよいと考えている。そして、わかる、できる、また、できない、わからないさえも生徒のものになれば、「あの先生の授業はわかりにくい」とはならないはずだ。多忙で「ブラック」な教育の現場の「くろこ」、なんて笑えない話だが、一流の「くろこ」が新しい時代の先生のカタチのように思える。これは同業者からの助言。「例年10人前後しかトップ進学校に行けない中学校区で、合格者数を毎年これだけ出している辻村勉強会は、もっと自慢するべきだ。」「学年100人規模の中学校では、目に見える形で順位をあげるのは難しいのに、結果を出している子がこんなにもいる辻村勉強会は、もっと自慢するべきだ」「学年の1割が通塾すれば大成功と言われる学習塾業界で、これだけの人数の塾生が通う辻村勉強会は、もっと自慢するべきだ。」彼はSNSなどをうまく利用して自慢することが宣伝になると助言してくれたのだが。情報過多であるがゆえ、他人の噂やクチコミカキコミ頼みではなく、「自分で考えるチカラ」が必要とされる。消費者も賢くならないと、選別する側から選別される側になりかねない。何々高校何名合格トカ、何十番成績アップトカ・・・。興味ないわ。
「先生と授業」
僕は、学校の先生の授業が楽しかった。決して優等生ではなかったけど、学校に行きたくないなんて思ったことがなかった。100点のたびに文房具をたくさんくれた小1のN先生。授業を中断して、ジャイアンツvsライオンズの日本シリーズを教室のテレビで見せてくれた小2のA先生。教科書には載ってないことをプリント授業でいきいき教えてくれた小3のN先生。愛車の白いホンダインテグラに僕らを乗せてかっ飛ばしてくれた小4のM先生。校外学習で一緒に徹夜で語り合い、日の出とともに早朝野球をしてくれた小5のI先生。悪いことをすると両手でほっぺたを力いっぱいたたいた小6のI先生。『PlayBoy』は真面目な週刊誌だ、と熱く語った中1のT先生。後藤久美子の写真を前に理科の実験器具でコーヒーを淹れる中2のT先生。好きなものは1万円札とマムシドリンクと豪語する中3のS先生。辻村のような不良とつき合うなと、友人に忠告した高1のK先生。授業後に毎日ボランティアで勉強を教えてくれた高2のH先生。バスガイドの電話番号を協力して手に入れた高3のI先生。記憶に残る先生。思い出の授業。これ、今、ぜ~んぶアウトかな…。今の「先生」に求めること。僕らの時代とは大きく変わりました。それでも変わらないもの。今、「私」にできること。辻󠄀村勉強会では、新小学5年生から集団授業を始めます。そろばんや習字や寺子屋がなくなりつつある今、自分のできる範囲で小学生の面倒を見てあげるとしたら、「授業って楽しいんだよ」を伝えてあげることはできる。正直に言うと、「小学生のうちは小学校で楽しい授業を受けてほしい」というのが今までの本音でした。しかし、学習指導要領などの現状をかんがみ、偉そうですが、授業をしなければという使命感のようなものがふつふつと湧き上がってきたのです。小学生に授業の楽しさをじっくり教えよう。
「無駄」
受験勉強は膨大な「無駄」の上に成り立っている。自分を凡人と認めるのなら、「無駄」から逃げないこと。近道を探すには遠回りするしかない。海面に現れた氷山の一角を支えるのは、海に隠れた大きな「無駄」である。氷山の一角を大きくするには、海中の「無駄」を大きくするしかない。海中の「台形」が大きくなれば、海面の「三角形」は必然的に大きくなる。「三角形」だけ大きくしようとしても、氷山は頭でっかちのいびつな形になり、いずれ崩れてしまう。効率よく選別しているはずが、気づけばただの手抜きになってしまう・・・。氷山の一角とは「実力」と呼ばれるのも。入試をはじめ、社会は「実力」しか認めてくれない。「見えない努力」は、なかなか評価してくれないのが現実。それでも、勇敢に「無駄」に立ち向かった者だけが、「実力」を手に入れることができる。この宿題は無駄だなあ、この授業は無駄だなあ、この勉強は無駄だなあ。勉強だけではない。悩むことも「無駄」なのだ。受験生、たくさん悩んできたでしょうか。しかし、それは必要な「無駄」だった。誤解を恐れずに言えば、居眠りも、サボりも、評価されるべき「実力」のための必要な「無駄」だったのかもしれない。受験生の君を君の親がどれだけ深く「心配」しているか、君は気づいていない。なぜなら、その「心配」も深い海の中だから。「心配無用。その心配は無駄です!」受験生は、そんな心意気で入試に臨んでほしい。多感な時期に新型コロナがやってきた世代。あの時、人は「無駄」を排除し、「効率」を最優先した。
子どものころの「無駄」な経験は、頭でっかちにならないためにとても大切なことで、少し心配していた。Zoomが重宝がられ、会うことが軽視されるようになった。給食のおしゃべりが禁止され、すみやかに食べることを強いられた。ノートに書く宿題から、管理しやすいタブレットになった。学校の長期休校は、欠席の罪悪感をなくした。「会うこと」「おしゃべり」「書くこと」だけではなく、「出席」すら「無駄」認定を受けた。「無駄だよ。やる意味ない」ということばがチカラを持った。削られ、そぎ落とされ、スマートになり、「効率」を求める「便利さ」が残り、「無駄」からうみだされる「豊かさ」は消えてしまう。「便利」って何だろう。スマートフォンは便利だ。コンビニは便利だ。車は便利だ。もちろん、僕も「便利」を利用する。でも、それだけでは「豊か」にはなれない。便利なスマホは、つながらなくてイライラ、重くてイライラ、Wi-Fiがなくてイライラ、既読無視にイライラ。便利の象徴であるコンビニは、レジにたった2、3人並ぶだけでイライラする。車は、渋滞でイライラ、クラクションにイライラ、安全運転にイライラ、イライラの末のあおり運転。自動手洗いの反応が悪くてイライラ、エレベーターの階数表示を見つめてイライラ、TVerのCMにイライラ。「便利」は「イライラ」する。「イライラ」したくないから「便利」を求めたはずなのに。「便利」は「身体」を使わないぶん、「精神」がイライラ疲れる。コスパタイパを優先すれば、そりゃあココロが病むわけだ。要領や楽な方法を求めすぎず、「無駄」を積み重ねることが健康的と言えるのかもしれない。効率よく栄養を摂取できるサプリメントの錠剤だけで生きることが「豊か」とは言えないのだから。究極の効率化はAIに任せておけばいい。どれだけ「無駄」を謳歌できるかがその人の魅力になると、僕は思う。
「SOくんが遊びに来た。その1」
「先生、ツジムラのトイレは今きれいですか」卒業第5期生のSOくんが遊びに来た。その時の第一声。彼がツジムラに在籍していた頃「トイレを汚すのはいつも男性で、掃除するのはいつも女性、というのはおかしい。」という話を授業でしました。それからというもの、SOくんはツジムラのトイレ掃除をしてくれるようになりました。どれだけの人がSOくんのトイレ掃除に気づいたでしょうか。トイレットペーパーが三角形に折ってあったのは、SOくんの「掃除しました」というサインでした。それ以外にも、ツジムラでの思い出話や高校生活、将来の夢について話してくれました。そして「高校で過去最高順位がとれるようになった」という報告が、塾の講師としては何より嬉しかったです。高校での活躍の報告は他の卒業生からもよく聞きます。私は自信をもってこう言います。「ツジムラで身につけた勉強の仕方は高校でも絶対に役に立つ。中学で結果が出なかった子も高校になって必ず実を結ぶ。あのときあれだけがんばったのだから。ツジムラメンバーは高校に行っても必ず伸びる!」目先の結果を追い求めるが故、高価なテキストや大量のプリントに押しつぶされ、やり方、解き方、考え方まで過保護な授業で教えてくれる塾の出身者ではこうはいかないでしょう。高校では誰もプリントくれないよ。誰も出る問題を教えてくれないよ。ツジムラで失敗しながら自分自身で考え、みつけた勉強の仕方は、勉強以外でも応用できる普遍的な方法だと信じています。SOくん、本当なら成績のことを一番に自慢したいはずなのに「今のトイレの状態」を気にする言葉が第一声とは・・・。彼は大きな人間になる、そう、確信しました。(本来なら彼の行動を称えるべく実名で紹介したいところですが、個人情報に敏感な昨今、アルファベット表記で失礼します。)
「SOくんが遊びに来た。その2」
「先生、高校で一番をとりました!」卒業第5期生のSOくんが笑顔いっぱいで遊びに来た。これはその時の第一声。あの頃、ツジムラのトイレ掃除をしてくれたSOくん。寝グセのまま朝から晩までテスト勉強会に参加したSOくん。ツジムラの送迎で、自宅まで送り届けた後、ツジムラ号が見えなくなるまでお辞儀をしていたSOくん。時にはトイレに閉じこもってストライキをしたSOくん。なかなか出発しないツジムラ号にいらだつことなくお辞儀し続けたSOくん。I don’t Know.の意味がわからなかったSOくん。Pardon me? が何度も聞き取れなかったSOくん。クロスワードの達人だったSOくん。弓道は達人ではなかったSOくん。ボビーオレゴンやアントニオ猪木のモノマネをしてくれたSOくん。無茶振りにも快く答えてくれたSOくん。モノマネのクオリティーはひどかったSOくん。単身赴任のお父さんと、大学でひとり暮らしのお兄ちゃん、自宅でお母さんをひとりで守るSOくん。虫が大嫌いなSOくん。お母さんに虫から守ってもらったSOくん。そんなSOくんが学年順位1位を獲得したのだ!「世の中は1番になれない人間の方が多いのだから、1番ではないときの気持ちを忘れるな」 So Great? No, So is Great!
「SOくんが遊びに来た。その3」
SOくん、成人おめでとう。スーツ姿がカッコよかったよ。
「これからもブレずに」
辻村勉強会にご理解とご協力を頂き誠にありがとうございます。手前事で恐縮ですが、辻󠄀村勉強会も2023年10月で14周年を迎えることができました。「おめでとう」を言われることが照れくさいので、事後報告にて失礼します。しかし、これもひとえに、保護者の皆様並びにツジムラ現役生、卒業生のおかげです。地域のために!!とイキって立ち上げた辻村勉強会ですが、逆に地域の方に支えられた辻村勉強会となり、どれだけ感謝しても感謝しきれません。本当にありがとうございます。思い起こせば、来月結婚式というタイミングで会社を辞め、独立の準備にとりかかりました。披露宴では、司会者が新郎の職業を紹介するのにしどろもどろ。「お父さんはね、無職で結婚式をしたんだぞ」と娘に自慢しています(笑・・・傍らで妻は苦笑)辻󠄀村勉強会は定員10名/各学年で始まりました。それが今や、毎年、満席により入会をお断りする心苦しい限りの状況です。教室を増やすお話や異業種への展開をご提案頂くこともあるのですが、頑なに「大きくなること」「有名になること」「映えること」を拒否し続けています。それは、「どうしたら塾のためになるか」ではなく、「どうしたら児童生徒のためになるか」を私なりに追求した結果だと自負しております。「ツジムラに入りたくても入れない子がいる」ツジムラで勉強できる幸せ、ツジムラで勉強できる選ばれし者、という自覚をもって通ってほしいです。「大きな塾にないできないことがある。小さな塾にしかできないことがある」という愚直な思いをお許しください。そして、まだまだ至らない点も多いかとは思いますが、「ツジムラは楽しい」「ツジムラはわかりやすい」「ツジムラでよかった」と言ってもらえるよう、これからも精進して参りたいと思います。今後とも、学び舎辻村勉強会をよろしくお願い致します。
この熱い想いを、ひとりでも多くの生徒に伝えたい。
学び舎 辻󠄀村勉強会 辻󠄀村宣人